久井稲生神社について
久井稲生神社の由緒
久井稲生神社は、第61代朱雀天皇の御代、天慶元年(938年)に伏見稲荷大明神を勧請した地方有数の歴史を持つ古社です。
稲荷大明神由来記によれば、一匹の白狐がこの地で暮らす里人たちの夢枕に立ち「稲荷大明神が山城国稲荷山から霊を分かってこの地に鎮座し賜う。明朝、杭を持ち寄って社を立て膳を供すべし」と告げ、人々はそのお告げに従い杭木を持ち寄り神殿を造ったと記されています。
それ以降、この地は
久井稲生神社はこの地を治める領主、藩主からの崇敬が厚く多くのご寄進をいただいています。
弘治三年(1557年)毛利元就公が本殿を造営し、その三年後の永禄三年(1560年)には、小早川隆景公が社殿(本殿、幣殿、拝殿)を造営し、さらに社領田、十二町二反、神子田、五町三反および
元禄十四年(1700年)、三原城第四代城主、浅野忠義公により社殿が再建されます。これが現在の社殿です。
その他にも浅野家よりの奉納品、参拝祈願などは数多くあったと記録されています。
また明治初期頃まで杭稲荷神社となっていましたが、国学的な解釈により久井稲生神社になりました。
御鎮座地
広島県三原市久井町江木宮之本1−1
御祭神
【
御神徳
久井稲生神社の御祭神である
本殿
戦国大名として有名な毛利元就公が弘治三年(1557年)本殿を造営されました。
徳川時代の元禄十四年(1700年)に三原城第四代城主、浅野忠義公により社殿(本殿、幣殿、拝殿)が再建されました。それが現在の社殿です。
【御祭神】
【
拝殿
小早川隆景公が永禄三年(1560年)社殿を造営し、徳川時代の元禄十四年(1700年)に浅野忠義公により再建されました。
その後、文政四年(1821年)に再建された記録があります。
商売繁盛、交通安全、縁結び、安産などの守護神として毎年多くの参拝者をお迎えいたします。
八重垣神社(やえがきじんじゃ)
五穀豊穣、厄除け、厄払い(病気・火難・水難)、学業向上、縁結びなどを崇敬者にもたらすといわれます。
延暦四年(785年)に造営され、安芸国広島藩の地誌である「
二月には陰と陽、二本の御福木を争い福男を決めるはだか祭りが八重垣神社で行われることもあり、勝負運、運気向上を願う参拝者が多く訪れます。
【御祭神】
冥府神社(みょうぶじんじゃ)
御祭神の
天慶三年(940年)に造営されました。
【御祭神】
久井稲生神社の歴史
久井稲生神社には、伏見稲荷神社を勧請する以前の伝承が残っています。
用明元年(585年)に当社の社家秦氏が御分霊を奉持し「杭の伊奈利大明神」として鎮座したという伝承があります。
境内末社の八重垣神社は、この地域に祀られていた地主神だと藝藩通志に記述があり、また境内には奈良時代に始まった神仏習合の形で祀られた社があります。
神仏分離でこのような社が失われた中で、古くからこの地の人々に信仰されたこの社は今も人々に崇拝されています。
また久井稲生神社は古くからこの地の人々の生活とともにありました。
杭の牛市は、
天暦五年(951年)、買った牛、一頭を久井稲生神社で引き渡したのがのちの杭の牛市の始まりです。
その後、応和三年(963年)9月23日、杭の牛市が始まり、それが起源とされています。
牛の生産地である中国山地と消費地である尾道、三原、関西をつなぐ立地であったためにこの地を中心に牛馬の取引が活発に行われ、人々が集まり発展しました。
境内にある石造りの立派な牛は、大正十五年(1926年)に奉納されたものです。
千年を超える歴史ある久井稲生神社は多くの参拝者を迎え、今日も人々に崇拝されています。
天慶元年(938年) | 伏見稲荷大明神を勧請 |
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弘治3年(1557年) | 戦国大名、毛利元就が本殿を造営 |
永録3年(1560年) | 三原城主、小早川隆景が社殿を造営 |
天正13年(1585年) | 小早川隆景が「紙本墨書大般若教六百巻」(広島県重要文化財)を奉納 |
元禄14年(1700年) | 三原城第四代城主、浅野忠義公が社殿を再建 |
昭和21年(1946年) | 宗教法人法により神社本庁所属 |